陽が出れば花が咲く

種を蒔き雨が降れば育つ

還る場所は愛なのだと

 

 

.なんだかんだ言って、思考を堂々巡りにさせても行きつくところは愛なのだと。

そう思うとなんだか暖かい気持ちになる。

クソー!と奥歯に力が入るようなことも「でも結局愛に還るし」

目がぎゅっと痛くなるような悲しいことがおきても「いつかこれも愛に還る」

愛されて生まれてる以上、やっぱり行きつくところは愛でないと

むしろ示しがつかないような。学校の校庭だったら円周できるようスタートもゴールも一緒のように。

愛で始まって愛で終わらねば。なんて思いながらいつも以上に大きな月をみながら家路についた。

 

.愛といえばなんだか壮大で、深くて、時には憎しみになってしまいそうな危うさもあって、不確かなものだと思っていたけれど

最近いろんなものをまた知る機会があり、身近な家族に思いを寄せたりしているうちに

家族でもこんなに各々が思っている愛が違うのだと知ったわけで。

愛を与えてもらいたいと思っていた父。愛を広く与えていた母。

愛は還元されるものだと思っていた祖母。愛はその場にあり供給量の変わらないものだと信じている祖父。

静かな愛を与える兄。私は果たして。

 

.愛というのは、与える→与えられるの一直線だと思っていた。

だから、互いに同じ量思ってないと天秤のようにバランスがとれないのだと。

だから人は最初に好きもの同士で結婚しても生活環境などでバランスがとれなくなった結果離縁につながるのでは?と。永遠に続くものはないのだと、勝手に思い込んで

勝手に決めつけて、これが心理だと思っていたけれど。

そもそも愛は一種類でないのだ。

愛こそは技術であり、メンテナンスがこまめに必要なものかもしれない。

だまって育つものでもない。教わってできることでもない。

愛は問いなのだと。さっきちらっと見たyoutubeで言っていた。

愛に限らず問い続けることはとても大事だと思う。

過去記事にも書いたが、問い続けていたからこそ、私は10年の暗闇から脱することができた。自分のことが一番わからないから、時間をかけて自分に対して問いていくことが

一番の自己愛なのではないかと。

寂しさは、母親が毎日私を置いて仕事に行ってしまうことではなかったと。

寂しさというのは一番愛に直結すると思う。

愛されたいという願望は、まさに今現在に、満足しておらず

心に隙間ができている。冷たくなってしまっている。半透明になってしまっている。

埋めるには、暖かさや色が必要なようにそれもまた

種類の違う愛だったりするのかもしれない。

こじつけのように愛を連呼するのはよくないが、愛というのは必ずしも相手がいて成り立つものだけがすべてではないので

対自分への愛も還るべき場所なのかもしれない。

 

.恋愛ものを見すぎるとやはり需要⇔供給を意識してしまう。

(作品中には無償の愛とあるものもあるが)

無償の愛というのは、また、便利で合理的な言葉だと思う。

そう、気持ちや行為ではなく。言葉なんだと思う。

そしてまた私は、今後もし結婚して、子供を授かることがあれば

今言葉だとおもっている無償の愛の意味を知るのかもしれない。

生まれてすぐ知るか、子供が育って振り返った時に知るか、

もしかしたら、その子供が巣立った時に知るかわからないけれど

それまでずっと、愛を問い続けていきたいと思う。