年末に帰省してまた実感しましたが、またも発見がありました。
人間、どこまで行っても孤独なんですね。
でも、他人がいるから孤独を感じることができ、寂しさを感じ、人のぬくもりを感じるのかもしれませんね。
父も、祖父に対して求めるものが多く認めてほしい気持ちが
祖母が亡くなってから顕著に出ていました。
本人は気づいていないけれど、気持ちには気づいているけど態度や言動に出ていることに気づいていないというか。
でもこれは父だけだと思ってました。
母方の叔父も同じような状態で。昔思っていた感情がより悪意を身に着けて大きくなり自分では制御できなくなっているのかもしれませんね。
身近な人に強く当たってしまうのも、ほんとは「不安」で「寂しい」
住むところや、仕事や、家族がいたって、孤独は埋まらない。
幼い時に制御しすぎてはいけないのだと、実の親や叔父という人生の先駆者を見て学んだ年末でした。
私もまた、孤独で、不安で、さみしい人間なわけで。
より他人を求めてしまうせいでより強い孤独を感じる。
束縛されるのを嫌うくせに相手のできる限り全部を知りたいし制御したい。
こじれた気持ちは一番厄介なのかもしれませんね。
.先日久しぶりの友人と会うことになり他愛もない話などで盛り上がっていたけど、
そこでより痛感したのは、最初はよくても許容を超えると耐えられないこと。
些細なすれ違いや言葉ですら相手にとっては少しずつ少しずつコップの水を増やしていくこと。好きだから一緒にいる、他を後回しにできる、優先し続ける。
でも、ふと我に返る。あれ、何かしてもらったっけ、と。
まじめな話をしようとしても逸らされたり、自分がつらい時に軽くあしらわれたり、
付き合ってる中で大事な場面って大きなものもあれば日常の中に細々と存在する。
そういうもののほうが心の奥に残りやすい。
自分以外は、どこまでいっても他人だと感じるものだな。
私は、彼に選ばれてるんだろうか。
友人の話を聞きながらも、自分に重ねてみる。
重要な話もちゃんと自分の気持ちを返してくれるし、ごはんも全部食べてくれる
行きたいところに一緒にいってくれるし、自分のルーティーンと同じくらいは優先してくれてる気がする。
私は欲張りだから、言葉がとてもほしくなってしまう時がある。
もっと好意をあらわにしてくれないだろうか、と願ってしまう。
それをストレートに伝えたところで彼は困るだろうし、嫌がるかもしれない。
人と人だから、欲しがるものも違うし、与えるものも違う。
私たちは絶対大丈夫なわけでもないし、不確かで、不明瞭で、不安で、ああ~~。
優しいけれど、本当に好かれてるのか自信がない。
また、ぱっといなくなってしまう気もする。
大嫌いなセリフを聞かされて、私はまた、一人になるのかもしれない。
でもまあ、今年は自分のためにたくさん時間を費やそうと思ってるので、
きっと大丈夫。どんな結果になっても、大丈夫。