陽が出れば花が咲く

種を蒔き雨が降れば育つ

おばあちゃんのはなし

.おばあちゃんが亡くなった。

10日の16時ころ業端に父から連絡が入る。見覚えのある電話番号に一瞬で理解した。

「いま、命が燃え尽きたんだな」と

不思議と涙でなかった。仕事中だったからか、先輩がすぐ気づいて察してくれたからなのかわからないけれど。

丁度明日は休みで忌引は三日間だけだったから有給をくっつけることを店長にも了承得ていて家族ラインで相談している最中にシフトを確認すると

丁度三連勤あと休みだったので一番ベストなシフトだった。

8月の24日に不整脈が起こり、慌てて自分で運転して救急で入るというおばあちゃんらしい流れで入院し、109日間という長い闘病生活だった。

電話をすると「早く帰りたいよ」と仕切りに言っており、私は帰り道に何度も涙を流した。

 

.7、8日が連休だったので、父からの緊急に応じ急いで帰ったときには

以前あった時のように会話ができる状態ではなく、自分の呼吸に溺れてるような、なんとも息苦しく辛い生き地獄が続いているようだった。必死に生きようとする姿に涙をこらえながら「辛いね、苦しいね、色々してあげれなくてごめんね」などと思いながら声をかけ、いよいよなんだとそのときに感じた。

帰るか、それとも地元に留まるか、

セブンの駐車場で兄と母と迷う。その時の車の窓から見える空の雲はとても動きが早かった。雲を追うように空を見上げたのは何年ぶりだろう。きれいな空だった。忘れないだろうな、とふと思った。

 

.9日に父から連絡が入り、今夜から明朝が山場だと知る。

健康診断帰りだった。

御徒町につきそのラインを見て、いつもなら「そうか、あの人でも死ぬなんてことがあるのか‥」などと思っていたかもしれないのに、

抑えられない感情の波が押し寄せ、私は人通りの多いところを泣きながら職場に向かった。

御徒町は完全にシャンシャンさよならムード。

旗から見たら私は去りゆくシャンシャンのことを思い堪えきれず涙を流す女のような姿をしてきたかもしれないが

パンダなんて見ている余裕もなく

必死に自分の波をこれ以上広がらないように抑えることに必死だった。

職場について、制服に着替えてから本当は休憩をもらうはずだった。

このまま働くのか?おばあちゃんが死にかけているのに?いまから帰れるんじゃないか?最終便にのれば間に合うかもしれない。でも間に合わなかったら‥そもそも遠方の祖母で急に早退なんてしていいものなのか‥と動揺していた私は全く判断ができず、

運良く、ほんとに運良く上で打ち合わせしていた先輩が通りがかり

本社の人とのラインみてよ〜と、やりとりを見せてくれてる最中に堪えきれず大泣き。

理由を話すと間髪入れずに「帰んな!」と背中を押してくれた。

「間に合わなくたっていいじゃん!間に合うかもしれないじゃん!おばあちゃんがんばってくれてるかもしれないよ!何もせずここにいるより長野帰りな!とにかく落ち着け!大丈夫だから!」

私は何回何十回先輩にに助けられてるんだろうなぁ、甘えっぱなしでほんとに甘えっぱなしで申し訳ないけど今後もずっと甘えっぱなしなのかもしれない。

背中を押してくれたから、店長にも早退することを伝えられたし、店長もすぐ察してくれた。

18:30のバスが取れたからそのまま新宿に向かいちょうどついた頃に母から電話

「みんな帰ったから帰ってこなくて大丈夫。お父さんはああやって書いたけどいつ最後が来るか誰もわからないから、次集まるのはもう亡くなった後でいいから」と。

あんなラインの書き方してきてあんなに泣いてあんなに必死な思いで飛び出した私の気持ちとの差分が大きすぎて久しぶりに腹を立てた。新宿駅構内でなんなのよ!!!って叫んでいた迷惑な女は私だ。シャンシャンに激怒していたわけではない。

どっと疲れて、店長にも報告して次の日も働くことに。

家に帰ってまた思い出してシクシク泣き、次の日の朝も連絡来てないかすぐ様家族ラインを見るも連絡なし。

正念場にいつも強かったしなぁ。生きたい気持ちが人の何十倍もあり、やりたいことも人の何百倍もあり、時間がないと思うことが何千倍とありそうなおばあちゃんだからこそ、「ここでくたばってたまるか、絶対に家に帰るんだ」とギリギリまで命を燃やしているんだと思うと、更に泣ける。

そんなこんなで出勤して夕方電話が来る。最初に戻るというわけだ。

 

 

.安堵の気持ちでいっぱいだった。会えないことも、話すことも、名前を呼ばれることも、あの笑顔に会えないこともやはり心が裂けるほど押しつぶされそうになるほど苦しく辛いが、

でももうあんな状態が続くことなく、ここで終わったのだと

そう思い込むことで精一杯だった。

一人で帰りたくないわたしは兄と一緒のバスをとり、朝の9:30発のバスで帰省。

30分ほど早く着いた為歩いて帰ることに。

途中でがむしゃらでラーメンも食べた。私も粋とんこつにすればよかった。他人が食べてるものは美味しそうに見える。でも他人と同じもの食べるとわけわけするわけでもないのに損をした気持ちになる。なんなんだろうあれは、食い意地なんだろうか。

家に帰ったらおばあちゃんに白い布がかかって布団に寝ていた。

咄嗟に目を背けてしまった。

なんだかんだで受け入れられなかった。

だっていつも、いつもなら「おかえり〜遠かっつら〜何時のバスに乗ったんだね?」って。言うのになぁ。

いつも変わらない笑顔で言うのになぁ。

慣れすぎていたことにハッと気づく。

葬儀担当の方と打ち合わせをしていたので打ち合わせに参加し、その間に親類たちも続々集まった。

 

.「生前、通夜のときは着物を着せてほしい」とおばあちゃんが言っていたそうで

箪笥を開けたら沢山の高価で綺麗な品のいい着物と帯がたくさん出てきた。どれもこれも角十(呉服屋)で買っていたもので、話にもよく出てくる角十を贔屓にしていたんだと思った。

おじいちゃんとの写真によく出てくる鶯色の着物は見つかったが、青緑に金の松が入った帯がどうしても見つからず。

他の訪問着を叔母さんたちが選んでくれた。

帯が見つからなかったのは

「これは燃やさんでくれ、高かったで。」とでも言って見つからないように隠していたのかもしれない。

 

 

.通夜

母方の祖父が亡くなったときの和尚さんはちょっとうざめの人だったのでうちの宗の坊主もうざいか‥?と疑うような目で見ていたが、事前に渡された米寿や喜寿のときの文章や、おじいちゃんとの思い出に目を通してから来てくれた。

浄土宗自体は発足80年、人間のときの名前ではなく、新たにお釈迦様の子として極楽に行くため新たな名前を授ける儀式も一緒に行われる。

お経を唱えている最中に列の後ろから流暢なお経が聞こえてきて前からも後ろからもこれが360度サウンド‥?と混乱した。

お経の時に新名を言い渡されており、通夜が終わったあとにみんながいい名前をくださってよかったね。と口を揃えて言っていたが私は360度サウンドで頭がいっぱいだった為何も言えなかった。あの状況は誰だって混乱すると思う。

それにしても通夜だけでたくさんの人がきた。30人弱が集まってみんなが惜しんでくれた。

納棺された夜、寝る前に何度も何度も

早く起きてよ、焼かれてしまうよ、せっかくみんな来てくれてるんだから挨拶してないと。と言ってもやはり起きてくれなかった。

 

.中日

13日日曜日が友引の為葬式が行えず。みな葬式に向けて準備をすすめる。

父はもうがむしゃらだった。とにかく段取り良く、悲しむ暇もなく、滞りなく葬式が進められるようにすべてを把握し周りに指示だしをしていた。

葬儀場に思い出の品を飾りに行ったときに、式場が立派すぎて従兄弟たちで芸能人の葬式みたいだねって笑った。事実この言葉が明日本当になる。

 

 

.出棺

旅支度の最終着付けを。

足袋をつけたり、傘をつけたり、花をみんなで入れるときにこれがほんとに最後だと思うと自然と涙が溢れて堪えられなかった。思わず台所まで行ってボロボロ泣いてしまった。

釘打ちをし、いざ出棺。

鍵当番を言い渡されていたので一番最後に出たら唖然とした。

家の外にたくさんの人がいて集まっていた。近所の人だけじゃなくて、朝早くから友人たちが集まってくれていた。

本当に泣けた。人知れず、ひと目も気にせずあんなにボロボロ泣いてしまったのは生まれてきて初めてだった。

喪主挨拶で、いままで泣いたところをみたことない父が涙声で挨拶をした。

父が一番近くにいて、一番心配していた。一番離れたくないのは、おじいちゃんではなく父だったと思う。

霊柩車と我々が乗ったマイクロバスは思い出の地を回りながら火葬場に向かった。

公園の石碑、旧宅、たくさんの思い出があり、たくさんの歴史がある。いい順路だった。

 

.火葬場につき、最後の挨拶を交わしていざ扉が閉められると思うとここでも涙が止まらず。化粧は殆ど流れてしまった。

火葬中は、一時間ほどあるのでみんなで昼食を。朝ごはんどの間隔があまりないのでみんな全然食べられず。

おじいちゃんがまたお弁当に名前を書いているところでみんな笑った。

火葬が終わって骨を拾う際、「おばあちゃんは骨粗鬆症だったからあんまり残ってないかもね」と母と話していたけれど

思っていた以上に残っていた。

足の骨なんか立派そのもので、肋骨や背中はほとんど無かった。

「足は丈夫だったでね〜」と母。

一生懸命カルダスやセサミン入りの牛乳飲んでてよかったね、と心の中で思った。

 

.恐ろしい受付

火葬が終わったあと、マイクロバスで移動。知らなかったけど、葬式のときは行きと別の道を通るそうで。

式場について急いで受付の準備を。

12日に「香典返しはみんなの知り合い合わせても250で足ります」と父が担当者言っていたが、担当者の読みは300

私達はなめてかかっていた。

ものすごく人が来た。とめどなく人が来た。イベントの催事を思い出す程の途切れなさだった。

「250あったやつ、これで終わりなんだけど‥」と

私と従兄弟四人は青ざめる

まだらにまだまだくる、途中から誰かが

「駐車場が渋滞している‥」

更に青ざめる

そんな中で香典の連名が来るとすぐ様後ろを確認して数が足りるかヒヤヒヤする

駐車場が渋滞してるってなんだよ!めちゃめちゃ広いだろうがよ!

「マイクロバスもきた‥」

もうわからない‥一般市民の、普通の90歳のおばあちゃんの葬式なんじゃないのか‥

全く足りない!でも人は来る!どうする!

先に確保した親戚分を開放し配る。担当者もきて第一声「やっぱり‥」

私もそこで父の読みが甘かったですと重ねて言った。

しかし担当者は12日に50個予備でもっておくんで。と言っていたのに100個持っていた。プロは違うなって思った。

でも実際100でも足りなかった。

香典だけで400を超えた。来客は350はいたと思う。コロナ渦だったから行くことを断念した人も居ると思うと恐ろしくて思わず目を強く瞑る。

我々四人は息切れしたがらも受付をした。ヘトヘトだった。葬式中は疲れもあって眠くなってしまった。おばあちゃん申し訳ないけどあなた知り合い多すぎるよ‥

懐かしい顔ぶれもたくさん来ていた。昔の地区の知り合いや、私の友人のお父さんたちなど。

「お孫さんだよね?話は聞いてるよ」と何度も言われた。

父が途中で何かを言いかけて消えたので聞きに行こうとしたとき、来客のみなさんと話しながら父は涙を流していた。

「世話になったね、ありがとうね、本人も幸せだったと思う。これからはおじいちゃんも俺たち家族のこともまたよろしくね」と。

立派な父だ。

 

 

.葬式

みんな着席していざ始まるというところで

「式は何時から?」とおじいちゃん

「12:30だよ」と兄が伝えると

「じゃあトイレいってくるか」と急に言い出して相変わらずのマイペースさに周りがまた笑う。

やっと式が始まり、通夜の時にきてくれた和尚さんが先に挨拶をしてくれた。

「おばあさんとおじいさんが結婚したのが昭和35年の12月14日で今日が65回目の結婚記念日です」と。

65周年というと丁度スターサファイア婚式になる

(スターサファイアの「信頼」「希望」「運命」を意味する3本の光線にちなんだ夫婦の歴史を表しているそうだ。

65年前の今日はきっと思いもしなかっただろうけど、あなたたちタイプが正反対の夫婦が65年も連れ添ったということを誇りに思っていてほしい。

葬式の場にも親類や友人からもたくさんの生花が飾られており、花が好きだったおばあちゃんは幸せだろうなと思った。できれば本人にも見てもらいたいが、自分の葬式を見ることは誰にもできないのでこれが叶わぬ夢というものかと思った。

 

 

.葬式が終わり、集まった香典を取りに家族四人で再度式場へ。

父は驚愕した。私と担当者は真実だけを述べた。

「250じゃ全然足りなかった。予備の100を出しても足りなかった」ということを

再度配る為にプラス60個発注をした。

もらった香典を順番に金額もすべて打ち出ししててくれてすごく助かった。

あれをすべて自分たちでやるっていうのであれば私はプラス2日休みを伸ばして居座るしかないと思った。いや微塵も思っていないな、まぁ時間あるときにやってくれ〜って思うだけだろうな。私はそういうやつなので。

香典受け取ったあと思い出の品を回収したりテキパキと後片付けを。

遠方組も電車やバスで帰って行った。

遠方の祖母とはいえとんぼ返りしてくれたり近々で行き来してくれてほんとに助かった。

 

 

.葬式の夜

12日におじいちゃんがおばあちゃんへのメッセージを書く際に自分と妹の合作本を持ってきて、兄に「ここのコピーを取ってほしい」

と指定のページを出していた。

コピーとったものをみたら、おばあちゃんへの向けて書いた文章だった。

コピーを取る際白紙の紙で隠していた部分があり、その部分が気になったので葬式の夜にその本を読んでいた。

おばあちゃんへの感謝の気持ちを綴っている他におじいちゃんのことも書かれていた。

そしておじいちゃん自身もその当時のことを書いており、結婚当初給料の中からアパート代と少し実家に仕送りをしていたこと、アパート代が高く、他の人が借りた借家に一緒に住まわせてもらう日々を送っていたことを。

家主の奥さんが先輩に土日だけ会いに来るようになり、おばあちゃんがぶつくさ言っていたら「お前が美人だから心配で来ているのさ」と今では到底考えられないようなキザなセリフを言ったように書いてあったが、あれは本当に言ったのか、それともかなり上乗せして書いているのか。当の本人にしかそれはわからない。

長男を流産した時に、送った文章が選ばれて表彰されいたときのことも。

どうしても嬉しい気持ちになれず、生まれてくるはずだった子の声も、歩く姿も、何も見ることができなかった後悔。お産を頑張ったおばあちゃんを思った悲しい文章がその後も淡々と続いた。

他にはおばあちゃんたちが借りた借家にはお風呂がついておらず、いつもおじいちゃんの先輩の家の風呂を借りていたそうだ。(借家先輩とはまた別)

おばあちゃんが「自分たちのお風呂に入りたいわ」と言った時に風呂桶を買うことを決意したが、ここも運良く別の先輩が家を買い、そこではガス炊きのお風呂が完備されていた為風呂釜が不要になったとのことだった。

先輩にお願いしたところ、一年くらい使っていないから修理が必要だぞ?と。

修理費用やお礼のお金も合わせて4千円ほどで風呂釜が手に入り おばあちゃんもおじいちゃんもとても喜んだそう。

 

他の文章でも、

国鉄で働いていた時に、電車の音でどの電車か当てられるようになりおばあちゃんにも教え込んだらおばあちゃんもできるようになった話や、

おばあちゃんのことを豊満できれいな顔だと書いてあるところもあった。

その一冊だけでたくさんのおばあちゃんとの毎日がありどの一瞬もかけがえなのない大切な日々だったことが伝わってくる。

とても優しい文章で優しい言葉ばかりだった。

本は何冊か出しており、その中の詩集はおばあちゃんに向けた「結婚記念日」というタイトルのものもある。いとこの結婚式でいとこがサプライズですべての机に用意してくれていて、二人とも嬉しくもあり恥ずかしそうにしていたことを思い出していた。

お風呂から上がったあと、最後におばあちゃんと話そうと思って今日までのこと、これからのことを話しかけた。おばあちゃんなら、おじいちゃんがそっちに行きかけたときも「なんでもうきたのね!まだおらんとだめね!」といつものような剣幕で怒ってくれるはずだ。

私はボケても忘れないだろうな、それだけ影響力のある人だったから。

 

.15日最終日

葬式での出来事を母と話していたとき

母から「いろんな人から家族の話はいつも聞いてるよとか、おばあさんは家族を愛していたよと言われたよ」と言っていた。

家にいたときのおばあちゃんからは到底想像もできないけれど、おばあちゃんはおばあちゃんなりに家族を愛して大切にしていたんだと思った。

たくさんの人がほんとにお世話になりましたと頭を下げながら父に挨拶しているのを見て、人と人とをほんとに繋ぐことが上手く、残された人たちのことも助けてくれる人ばかりで、我々家族はおばあちゃんで成り立っていたことがわかる。結婚してからずっと、この65年間はおばあちゃんが中心だったと思う。そんなことを考えながら

折の残りを片付けたり、大量の座布団を片付けたり、バタバタと過ごすも途中から担当者が来て打ち合わせに。

叔母さんたちも変える時間が迫っていて、私も兄も15時にしたが、やることもなさそうなので(あとは自分たちでできそうなので)早い便があれば帰ること。インターから出てる昼便があったのでそこに飛び乗った

父は最後まで「15時だって言ってたのに!!!頼みたいことまだあるのに!!!香典の集計お願いしようと思っていたのに!!!!!」などと言っていたが、

今週ずっと休みだと言っていたので母と協力してがんばっていただきたい。

次はまた49日、新盆、一周忌と親戚に合う機会はまだまたある。それ以外にも帰ってこよう。じゃ

ないとおじいちゃんに忘れられてしまうので。

あとおばあちゃんにも「もっと帰っておいなよ。」と言っていそうなので。

書いてある以上に涙を流していたこの5日間だったが、それと同じくらいおばあちゃんのことも、おじいちゃんのことも知ることがたくさんできた5日間だった。

これからまたいつもの日常に戻るけど、だらけそうになったらいつも脳内におばあちゃんを置いて喝を入れてもらおうと思う。

それぐらいはしてもらっていいよね、孫の特権ということで。

一族の中で一番ダメダメな私だけど、人を思う気持ちはおばあちゃんに負けないくらい行動に移していこうと思ったよ。

コロナ渦で人とのつながりが薄くなってしまった時代に、余計大切さが増しているからね。

あ、あと高価な着物何着かください。着物の着付け習ってみたかったんで。

あ、最後に

おばあちゃんの死亡届を見て知ったけど、生年月日が殆ど一緒で思わず笑っちゃった。

おばあちゃんが昭和6年4月13日で私は平成6年4月2日、予定日はおばあちゃんと同じ日の13日だった。同じ日に生まれていたらまんま一緒だったね。

おばあちゃんのようにいつも笑顔で、誰かのために生きていくよ。

 

では。